3・商標(trade mark)
メソポタミア文明はインダス文明やエジプト文明と盛んに交易を行い、各地に代理店を配置したが、その契約時や商品の受け渡しの時に円筒形の石印を粘土板に押印して証文とした。この石印は専有の印として品質保持もかねたもので、今日の商標の性格を帯び、業者にとっては重要なものであった。古代ギリシア・ローマ時代には地中海沿岸諸国の交易を行う際に商品を製作した陶工、石工の名称をしるされた。これは古代バビロニア、フェニキア、アッシリアなどにも見られたが、通路網が発達したローマでは、特に街道の要所要所に商人集団の誕生により、商標が活発に使用された。
10〜11世紀頃になると、商品所有者の氏名の組合せ文字で商人標(merchant mark)といわれるものが普及し、⒕世紀頃にはヨーロッパ各地で広く用いられるようになった。この商人標は海難、盗難時の物品所有権を立証するためのもので、所有標(property mark)ともいわれ、現在の商標とは性格が異なっており、人格的色彩の強いものであった。また、ギルドにおいては構成員の統制手段、商品の技術、品位、品質などに対する責任表示として、また商品の所有を示すものとして用いられた。15世紀中ごろになると個人的商標(図1・16)
があらわれ、個人名や所在地の名称が用いられ、経営者の歴史や商品の変還を代弁する表徴とする扱いがされるようになった。やがて商標は、時代と共に会社や商品の信頼度を集約的に表現するシンボルとして重視される度合いも強まり、法的に規制されるようになった。
日本では701年(大宝1)に制定された大宝律令において、槍、鞍、漆の類に製造業者の氏名を印した記録があるが、奈良時代ごろから室町時代にかけて陶器の判別に用いられた窯印が、室町時代後期に「大」「吉」「富士山」「幾何学形態」などが暖簾に商標的に扱われるようになった。その様子は当時の絵巻物に描かれている。江戸時代になると商家の軒に横長の水引暖簾や長い長暖簾が下げられ、そこには屋号が明確に印されるようになった(図1・17)。今日でも、京都、奈良、富山の商家には紺染めに白抜きの屋号を表示した姿を見る。また、江戸時代には商品の海上輸送が繁栄し、回船業者達は識別のために荷物に印をつけたりした。酒造業屋は室町時代に六星印を印したりしたが、この時代は他に醤油、菓子、薬などの業者も印をつけた。これらの商家の印は武士の家紋を用いたもので、暖簾をはじめ、食器具、瓦などに家紋、家印として使用した。なお、商標権は日本では明治17年に制定された。
今日の商標は、情報媒体の発展と共に企業や組織のデザイン・ポリシー(design policy)
を一貫したイメージをもたせるための必要不可欠な表現要素を考えられて、信頼の表示として、企業(図1・18)や組織の「顔」として、弁別性、個性、訴求性が吟味された、秀れた造形作品であることが要求される。図1・19のアメリカの病院の表示記号は判別性、親しみやすさが老若男女なく工夫がめぐらされ、病院のイメージを和らげている。図1・20、
図1・21のオリンピック・マークは各国共通の視覚言語をしての分析が成功している。なお、文字に商標表示はロゴ・タイプ(logo type)といい、商標と共に登録することができ、専有の印としてRの表示がされる。
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