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  • 執筆者の写真吉岡徹

アール・ヌーヴォー

更新日:2019年1月16日

用と美の変還

2・アール・ヌーボー(art nouveau)

 モリスの装飾主義は、「用」に対する「美」の比重過多な表現様式を展開したが、このモリスの表現を様式化したものがアール・ヌーボーであった。

すなわちモリスの装飾主義と異なり「用」と「美」との接点を求め、過去の模倣様式を意識下に、新しい材料と技術を前面にした創造運動で、ヴェルデ(H.van de Velde)が中心となって主にベルギーで活動を展開した。

 ヴェルデは、バビルゾン派から新印象派に転向した画家で、1893年、30歳のときにモリスの影響を受けて応用美術に転向し、壁紙、装丁、家具のデザイナーとして活躍した。33歳のときにパリのプロバンス街にあるビング(S.Bing)の近代美術展の4室をデザインしたが、その様式がアール・ヌーボーと呼ばれ、人々の話題なった。この新しい表現は19世紀末~20世紀初頭にかけフランス、ベルギーで大流行し、1900年パリ博覧会では鉄の大量使用による建築で大反響を呼び起こした。この鉄を中心とした新材料の採用は、モリスの美術工芸運動を拒否し、手工芸運動への挑戦でもあった。アール・ヌーボーは第二のルネッサンス、ベル・エポック、モダン・エージなどの呼び方で世界中に伝播したが、一方、表面主義、悪趣味、堕落等の非難も受け、伝統的で保守的な関係者の反感をかった。

 アール・ヌーボーは、植物形態を基に得た曲線や曲面を主として用い、人々の強い印象を与えた。ペブスナー(N.Pevesner)はそれを「百合の茎を伸ばす長い感覚的な曲線、昆虫の触角、時として長い焔、そんな曲線が波を打ち、流れて行って互いに絡まりつつ手当たり次第あらゆる表面の隅から芽を吹き、全体を欲しいままに覆っている」と表現している。

 アール・ヌーボーの代表的作品は、パリ国際博覧会(1889年)のシンボルをしてエッフェル(G.Eiffel)が建てたエッフェル塔や、ギマール(H.Guimard)のパリの地下鉄入口(図1.6),オルタ(V.Horta)のブリュッセルにあるタッセル邸の設計(図1.7)などがある。




 この新様式の美術はバロック、ロココ、ケルト等の芸術をはじめ、日本の浮世絵など、様々な様式を取り入れ、モリスの美術工芸運動よりも前衛的であるといわれたが、「芸術のための芸術」という評価を受け、社会から離反しはじめ、評価も低下していった。しかし、1960年~1961年にパリ国立近代美術館で開かれた「20世紀の源泉展」では再評価の声があがっている。

モリスの美術工芸運動とアールヌーヴォーの二つの運動を源流に近代デザインは発展したが、その推進者として活躍した中心的な造形家は建築家であった。当時「用」と「美」との訓練を受けそれを自己の課題とした者は、建築家以外には見当たらなかったのである。



スペインのガウディ(A.Gaudi)が1883年に、有機的形態を表現する特異な協会(図1.8)を

着工し注目をあびたが、今でも建築途上にあるこの建物は、年々少しずつ築かれている。ガウディは本来は建築、家具のデザイナーでアール・ヌヴォーとは直接のかかわりをもたなかったが、アール・ヌーヴォーと共通した運動を展開した。


1907年、ムテジウス(H.Muthesius)によってミュンヘンにドイル工芸連盟(Deutescher Werk-bund,略称DWB)が設立された。DWBはラスキン・モリスの工芸運動やアール・ヌヴォ―とくらべて生活に適応した造形を基本概念をして、「用」と「美」との統合化を目ざす生産品の質の向上を使命とした。ムテジウスは、新しい造形は組織的大量生産に依存すべしと主張し、純粋芸術と応用芸術との分離を主張した。このDWBにはヴェルデも参加したが、量産方式に対して賛意を示さず、ムテジウスと対立、離脱した。

 産業革命以後、急速に進歩した機械文明は手工芸を押しやったが、モリスの美術工芸運動は手工芸への郷愁を深め、アール・ヌーヴォーは伝統様式を否定、DWBは技術を芸術との総合化の運動を展開した。そして、この延長線上に誕生したのがバウハウスであった。

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